2019-11-14 第200回国会 衆議院 憲法審査会 第3号
私が住む沖縄は、あのありったけの地獄を集めた沖縄戦が終結した後、アメリカの直接軍事支配下に置かれ、無憲法下の日常を強いられました。一九七二年五月の日本復帰により憲法が適用されるようになりましたが、同時に日米安保条約や日米地位協定も適用され、憲法法体系より安保法体系が優先する反憲法下の日常を今日まで強いられております。
私が住む沖縄は、あのありったけの地獄を集めた沖縄戦が終結した後、アメリカの直接軍事支配下に置かれ、無憲法下の日常を強いられました。一九七二年五月の日本復帰により憲法が適用されるようになりましたが、同時に日米安保条約や日米地位協定も適用され、憲法法体系より安保法体系が優先する反憲法下の日常を今日まで強いられております。
終戦後も、アメリカの直接軍事支配下に置かれ、憲法が全く適用されない無憲法下に置かれました。このようなアメリカの軍事支配下で、沖縄県民は日本国憲法に希望を求めて復帰運動を闘ったのであります。国民主権、平和主義、立憲主義をうたった日本国憲法を制定する帝国議会に沖縄代表を送ることすら許されなかったことを忘れてはいけません。 一九七二年五月十五日に復帰が実現し、沖縄にも待望の憲法が適用されました。
○照屋委員 先ほど、制限時間との関係で、政党についての意見を手短に述べましたけれども、関連して、いつも私が言うように、沖縄においては、敗戦後二十七年間、アメリカの軍事支配下で憲法が全く適用されないという状況が強いられておりました。その中にあって、結社の自由の保障は全くありませんでした。
○照屋委員 命どぅ宝というのは、琉球王朝以来、国策に翻弄され、あの悲惨な沖縄戦では二十万余のとうとい命が失われ、敗戦後の二十七年に及ぶアメリカの軍事支配下で不条理にも命が奪われた、その中から命こそ宝なんだよという沖縄の思いがこもった言葉なんだ。だから、ぜひ総理には、命どぅ宝、この言葉を、私は、胸に深く深く刻んでいただきたいと思います。
舘下参考人は元島民の後継者である、こういうお立場でありますが、私も、北方領土問題と全く同一ではございませんが、戦後、アメリカの軍事支配下で、本土から施政権が分離をされた沖縄で二十七年間経験してまいりました。
鳩山総理、悲惨な沖縄戦で二十万余の命が失われ、二十七年間のアメリカの軍事支配下で、沖縄県民の命が虫けらのように、殺され損のように扱われてきたことをどのようにお考えでしょうか。
思い起こすと、一九四五年から一九七二年五月十五日までのアメリカの軍事支配下の二十七年よりも、七二年復帰後の長い歴史を刻んだことになります。 復帰三十五周年に当たり、地元沖縄タイムス社が実施した県民世論調査では、復帰してよかったと評価する者が八九・三%に上っております。琉球新報の調査でも、八二・三%の人が復帰を評価する回答を寄せており、県民の多くが復帰を肯定的に評価しているものと思われます。
同条約によって日本は主権国家として独立をし、同条約三条によって沖縄は日本から施政権が分離され、アメリカの軍事支配下に置かれたのであります。一九七二年五月十五日の復帰の日まで、沖縄の人々は四月二十八日を屈辱の日とし、四・二八をさまざまな形での闘いの日に位置づけておりました。
○照屋委員 一九五二年四月二十八日、日本は独立をしたけれども、その日本の独立の捨て石として沖縄がアメリカの軍事支配下に置かれた。こういう厳然たる事実を麻生大臣にもしっかり理解していただくことを要望して、質問を終わります。
○照屋委員 私は、基地の島、沖縄選出の国会議員ですけれども、沖縄では、一九四五年から一九七二年までアメリカの軍事支配下に置かれて、日本国憲法が全く適用されない、無憲法下の状況にありました。当然、そのときには渡航の自由もありませんでした。そういう中で、私たちは、一九七二年に平和憲法のもとに復帰をしたわけですが、復帰して三十二年たちました。
沖縄は、二十万余のとうとい命が犠牲になった沖縄戦が終結して、すぐにアメリカの軍事支配下に置かれました。以来、昭和四十七年、一九七二年五月十五日に祖国復帰が実現するまでの間、沖縄には憲法が全く適用されませんでした。すなわち、無憲法下の状況に置かれておったのであります。
私も現在は幾つかの総合病院の顧問弁護士をやらせていただいておりますが、沖縄は戦後非常に医師不足で、特にアメリカの軍事支配下にありましたときには、大臣御承知のように、医介輔制度というのをアメリカがつくったんですね。
一九四五年、ありったけの地獄を集めたような戦争であったと言われる沖縄戦が終わって、直ちに米軍の軍事支配下に置かれたわけでありますが、一九四五年から一九七二年、復帰が実現するまでの二十七年間をいわば超えたわけでありますね。復帰後の方が長くなりました。 この間、三次にわたる沖縄振興開発計画が、政府の責任で、国の責任で取り組まれてまいりました。
そして、沖縄はアメリカの軍事支配下のもとで二十七年余、憲法が適用されない、そういう時期がありました。いまだに私たちは基地の重圧で苦しんでおります。この国の安全保障、これの犠牲をひたすら強いられているわけであります。 憲法の理念と基地沖縄については、総理はどういうふうにお思いでしょうか。
○照屋寛徳君 これ以上やっても何か禅問答みたいになっちゃうおそれがあるんですが、ぜひここのところは、かつての私たちが二十七年間まさにアメリカの軍事支配下に置かれてやりたい放題というか、今でも米軍人軍属の犯罪によってひどい目に遭っているわけですよ。つい最近はまた自衛隊の幹部までああいう本当にもう恐ろしいような、言葉を失うような女子中学生の暴行事件なんというのも発生しているわけです。
二十万余のとうとい命が犠牲になった沖縄戦、それに続くアメリカの軍事支配下の二十七年と、日本復帰から二十八年を経て今日に至る沖縄の戦後は、我が国の安全保障の犠牲と負担を強いられた歴史でありました。 国土面積わずか〇・六%の沖縄に、今なお在日米軍の七五%が集中しております。
私ども沖縄に住んでいる人間からいたしますと、戦後二十七年間、一九四五年から一九七二年までアメリカの軍事支配下に置かれました。憲法が全く適用されない状態でありました。 居住・往来の自由も許されない。神奈川へ行くにも大阪へ行くにも福岡へ行くにもパスポートがないと行けない。
○照屋寛徳君 私は、サイパン島のアメリカ軍の捕虜収容所で産まれて、それから二十七年間アメリカの軍事支配下の沖縄で生きて、それから日本に復帰した二十七年間、合計五十四年間生きてまいりまして、五十四歳であります。 私に与えられた時間はわずか十分間でありますので、要領よくお答えをいただきたいというふうに思います。 久しぶりに河野外務大臣の所信をこの場所でお聞きいたしました。
それは、あの第二次世界大戦での犠牲を根元的な背景として、そしてその後の米軍支配下における、つまり軍事支配下における実態に即して、平和こそ沖縄の心だと。それは、自分らが戦争によって犠牲にされている、日常的に爆音被害、あるいは軍人による暴行等の被害、あるいは環境破壊等々無数の基地被害をこうむっていますけれども、と同時に、自分らの痛みは他人の痛みでもあるんだと。
○照屋寛徳君 沖縄は戦争が終わって二十七年間アメリカの軍事支配下に置かれました。そして、沖縄に基地を集中的に置いているのは、ソ連が日本を攻めてくるかもしらぬ、そのために日本の平和を守るために沖縄に基地を置いているのだと言われてきました。そのソ連が崩壊した後もなお変わらぬ過密な米軍基地を沖縄に置いているわけであります。
さらに、沖縄は日本の独立と引きかえに二十七年間の長い間アメリカの軍事支配下に放置された、これはまさに政府の人の道に反する行為の結果だと。そして、戦後五十三年余り日本の安全保障の犠牲と負担を沖縄は強いられてきた。 しかしながら、私ども県民からすると、みずからは痛みを分かち合おうとしない本土の人々の行為、これこそ私は人の道に反することだ。